説教(聖書講解)
『あらゆる真理に導く聖霊』ヨハネ福音書16:1-15
最後の晩餐で、イエスさまを引き渡そうとしていたイスカリオテのシモンの子ユダは、パン切れを受け取ると、[イエスさまとの交わりから]ただちに出て行きました。ときは夜でした(ヨハネ福音書13:21,26,30)。裏切者が出て行った今初めて、弟子たちが夜の闇から区別され、イエスさまと十一人が光に照らされた晩餐に留まります。『私[イエス]は世の光である。私についてくる者は闇のうちを歩むことなく、生命の光を持つことになる』(同8:12)。『光の子らとなるため、光のあるうちに、光を信じなさい』(同12:36)。『私を信じる者が、誰一人として闇の中に留まることのないよう、私は光として世に来ている』(同12:46)。この真実が実現しているのは、「最後の晩餐」の今であると共に、紀元一世紀末のヨハネ共同体で執行される「主の晩餐の礼典」の今であり、時代と地域を超えてイエスさまを信じる者らの教会で執行される「聖餐の礼典」の今であります。
晩餐の席上で、イエスさまは弟子たちに、告別説教を語られました。説教がひと段落つくたびに、イエスさまはその段落の意図を語られました。『平和を私はあなたがたに遺し、私の平和をあなたがたに与える。それは世が与えるような平和ではなく、私があなたがたに与える平和である』(同14:27)。『ことが起こる前に、今、あなたがたに話しておいた。ことが起こる時、あなたがたが信じるようになるために』(同14:29)。『あなたがたが躓かないようにと、私はこれらのことを語ってきた。彼ら[迫害者たち]の時が来たら、私があなたがたに語ったことを思い出すようにと』(同16:1,4)。
『世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にまず私[イエス]を憎んできたことを知っておきなさい。あなたがたはこの世からの者ではなく、私があなたがたを世から選び出した。僕はその主人より大いなる者ではない。彼ら[世に属する者たち]が私を迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するであろう』(同15:18-20)。『彼らはあなたがたを会堂から追放するであろう。そればかりか、あなたがたを殺す人が皆、自分は神に務めを果たしていると思い込むような時が来ようとしている』(同16:2)。最初期のキリスト教徒は、ユダヤ教会堂の交わりの中にありましたが、紀元一世紀末のヨハネ共同体は、ファリサイ派から異端視され、ユダヤ教会堂から既に追放されてありました。それによって、ローマ帝国支配下での宗教的特権を失うと共に、様々な社会的不利益を被ることとなり、生命の危険に脅かされる事態も有り得たのです。似たような事態は、時代と地域を超えて、特にキリスト教徒が少数派である社会において起こり得ます。
イエスさまは、今ここにいる私たちに、こう仰せになります。「躓かないように」と。16:1で「躓く」と訳された動詞は「skandalizw(スカンダリゾー)」の受動態不定過去で「不信仰へと誘われてしまう」「背教への罠にかけられてしまう」という意味あいです。『私[イエス]のうちにあって、あなたがたに平和はあるようにと、これらのことをあなたがたに語って来た。世にあって、あなたがたには苦しみがある。しかし勇気を出せ。私は世に対して既に勝利をおさめたのだ』(同16:33)。だから「躓かないように」。
『これらのことをあなたがたに語って来たことで、あなたがたの心を悲しみが満たしてしまっている。だが、私はあなたがたに真理を言う。私が去ることは、あなたがたにとって有益である。私が去らないなら、弁護者があなたがたのところに来ることはない。だが、私が往けば、彼をあなたがたのもとに派遣することになる』(同16:6-7)。
イエスさまの「最後の晩餐での約束」を、紀元一世紀末のヨハネ共同体は、既に成就した恵みとして受けとめています。歴史的には約六十年前に、イエスさまは十字架に挙げられ、父のもとへと往かれ、約束通り、地上に遺した御自分の民のもとに「弁護者」を派遣なさったからです。二十一世紀の私たちは、同じ恵みのもとにあります。
父のもとへ往った御子が、父に頼んで、地上に遺された私たちの同伴者として与える聖霊は、イエスさまの「道、真理、生命」(14:6)を受け継ぐ「真理の霊」(14:16)です。地上において貧しき者、病める者の弁護者であられたイエスさまの働き(9:1-7)を引き継ぐ「もう一人の弁護者」です。「弁護者paraklhtos(パラクレートス)」は、「援助者として呼ばれたる者」「調停する者」「執り成す者」という意味でした。御子イエスさまは父のもとで、私たちの祈りを神に「執り成し」、罪深い私たちと神との和解を「調停し」、そのようにして私たちを「援助する」方として、生きて働いておられます。その援助を地上において実現するために、「もう一人の弁護者」が派遣されているのです。
イエスさまが「ひとり子なる神」(1:18)として父を啓示なさった、すべての言葉と業を、「イエスさまの名において父が派遣した聖霊」(14:26)が想い起こさせて下さいます。私たちは今、ヨハネ福音書によって、イエスさまが死人の中から起こされた事実を知り、それが、エルサレム神殿に代わる、イエスさまの御体という新しい神殿の完成だったと想い起こします(2:19-22)。私たちは今、ヨハネ福音書によって、イエスさまが十字架に挙げられ、父のもとへ往かれ、栄光をお受けになった事実を知り、それが、天上のエルサレムに入城された来たるべき王の栄光だったと想い起こします(12:12-16)。
「父のもとから出てきた真理の霊」(15:26)は、イエスさまこそ、私たちの道であり、真理であり、生命であることを、保証しておられます。イエスさまが派遣した弁護者は、イエスさまが今も生きて働き、私たち一人ひとりのために具体的に執り成し、調停し、援助していてくださることを、証言しておられます。この聖霊が、私たちの内に留まってくださいます。それによってイエスさまが「インマヌエル、我らと共にいます神」として、私たちの内に留まってくださいます。それによって私たちも、イエスさまとの交わりの内に留まり、父なる神との交わりの内に留まることができるのです。聖霊が私たちの内に留まり、イエスさまについて証しをなさる御業によって、私たち自身も、聖霊とともに、イエスさまが道であり真理であり生命であると証しする、イエスさまこそ私たちのために執り成し、調停し、援助する弁護者であると証しする「キリストの証し人」へと召されるのです(15:27)。
キリストの証し人へと召されたヨハネ共同体でしたが、ユダヤ教当局からの憎悪に満ちた拒絶と迫害を経験する中で、キリストにあって「すでに実現した」救いの出来事が「今なお道半ばである」ことを痛感しており、『心はかき乱され』(同14:1)、『おびえ』(同14:27)、『悲しみ』(同16:6,22)と『苦しみ』(同16:33)とを抱いていたのでした。二十一世紀の日本のキリスト教会も、これに似た苦しみと悲しみを抱いているのです。キリストにあって既に実現した救いの出来事が、今なお道半ばであることを痛感しつつ「キリストの証し人」としての召しに殉じているのです。このようなアイデンティティ(自らの使命と立場)を再発見するよう導くのが、イエスさまの告別説教なのです。
「私が去ることは、あなたがたにとって有益である」と宣言なさったイエスさまは、「私が往けば、彼[もう一人の弁護者、真理の霊、聖霊]をあなたがたのもとに派遣する」と約束なさり、それを果たしてくださいました。紀元一世紀末のヨハネ共同体が、キリストの証し人として語った言葉を書きとめ、ヨハネ福音書を成立させたのは、まさしく聖霊の御業です。ヨハネ福音書を朗読して説教する御言葉の働き人が、太田教会の礼拝に遣わされていることも、これまた聖霊の御業です。
『その方[聖霊]が来る時には、罪について、義について、また裁きについて、世を暴くであろう。罪について、つまり[世に属する者たちが]私を信じようとしないことを。義について、つまり私が父のもとに往こうとしており、もはやあなたがたが私を見なくなることを。また裁きについて、つまり世の支配者が裁かれてしまっていることを』(同16:8-11)。
聖霊の御業は、イエスさまを信じる者たちに対してのみならず、イエスさまとその僕を憎み、蔑み、退け、亡き者にする「世の人々」に対しても、今まさに働いています。聖霊は、世を暴きます。「暴く」と訳された動詞は「elegXw(エレンコー)」の未来時制で「明るみに出すであろう」「咎めるであろう」「過ちを認めさせるであろう」という意味あいです。聖霊は「世の人々がイエスを信じないことこそ罪である」との真相を明るみに出します。聖霊は「世の人々がイエスを罪人として処刑し、イエスが弟子たちの目からも見えなくなることが、実は、神が御子を天に引き挙げたことであり、イエスの従順こそ義であったことの証しである」との真相を明るみに出します。聖霊は「世の支配者がイエスを裁いたことによって、自分たちが神から裁かれている」という真相を明るみに出します。そのようにして、世の人々を咎め、過ちを認めさせます。
イエスさまが父のもとへ往かれた後、地上に遺された僕たちから見ると、十字架において既に完成した啓示の業は、一方では、イエスさまを信じる者たちの共同体において救いを実現しつつ、他方では、世の人々の不信仰を暴き、咎め、過ちを認めさせる結果をも生み出しているのです。この分裂を、聖霊は、教会の宣教の出発点となさいます。世の人々への裁きと、キリストの証し人の召しとの、対照的な出来事において、イエスさまは、すでに完成した啓示の業を、聖霊において現在化なさり、すでに裁かれている世を、すでに実現している救いへと、なおも呼び寄せようとしておられるのです。
『真理の霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理のうちに導くであろう。その時、彼は自分から語るのではなく、聞くことを語り、来るはずのことをあなたがたに告げることになるからである。その方は私の栄光を現わすであろう。私のものを受けて、あなたがたに告げることになるからである。父が持っているものはすべて私のものである。このゆえに彼が、私のものを受けており、それをあなたがたに告げることになる、と言ったのである』(同16:13-15)。
真理の霊は、私たちを導きます。「導く」と訳された動詞は「odhgew(ホデーゲオー)」の未来時制で「道案内するであろう」という意味合いです。道案内なさる聖霊は目的地をよく御存知です。それは「あらゆる真理のうちに」です。イエスさまの啓示の業は、すでに十字架をもって完成しています。この業が、聖霊によって現在化される必要があります。イエスさまの僕である私たちは、世の艱難と迫害の中を生き続けなければならない、現実の人間です。未来はなお、私たちの上に、多くの問題をもたらします。個々の問題は、すでに完成している啓示の業を、そのつど現在化することで解決されてゆくべきです。未解決の問題が発生してくるたびに、十字架において完成している啓示から一つの真理が導かれ、そのことによって、十字架もまた過去のものと成ってしまわず、私たちの今現在に立ち続けるのです。このようにして、あらゆる具体的な個々の未解決の問題にふさわしい、あらゆる真理が提供されます。このような「十字架の現在化」を可能にするのが、真理の霊です。神は御自分のものを惜しみなく御子に与え、御子は父から与えられたものを惜しみなく聖霊に与え、聖霊は父と子から与えられたものを惜しみなく私たちに与えて下さいます。
『十字架につけられたイエスのもとに来て、すでに死んでいるのを見ると、兵士たちの一人がその槍で脇腹を突いた。するとすぐ血と水が出て来た。目撃した人が証しして来た。その証しは本物である』(同19:32-35)。これが挙げられたキリストの栄光です。キリストは、十字架につけられたままのお姿で、花婿の裂かれた体からほとばしり出た御自身の血を、極上の葡萄酒として、花嫁なる民に惜しみなく振る舞っておられます。聖霊は活ける水、永遠の命に至る水となって、キリストの栄光を証ししておられます。「誰か、渇いている人があれば、イエスの所に来ていつでも飲むがよい。イエスを信じる人は、この方の内から流れ出る活ける水の川から、遠慮なく飲むがよい」(同7:37-38)。
祈―詩編80による
愛しまつる主イエスよ。私たちの牧者はあなたのみ、私たちはあなたの羊の群れです。慕いまつる神の御子よ。耳を傾けたまえ。父の右に座しておられる、栄光に輝く王よ。崇めまつるキリストよ。御顔を輝かせたまえ。今こそ私たちを元に戻し、救いたまえ。仕えまつる平和の君よ。いつまでですか。涙のパンを食べ、あふれる涙を飲む日々は。聖霊よ。葡萄の木を顧みたまえ。主の右の手が植えた株を、ご自身の命を与えた民を。御父よ。私たちはあなたの御子を離れません。十字架の真理で私たちを生かしたまえ。主の御名によって。アーメン