説教(聖書講解)
『律法の下に生まれた御子』ガラテヤ書4:1-7
今から十五年前、2009年7月に新会堂を建て上げた太田の教会は、二か月後の9月に村手淳牧師の辞職、中根汎信代理牧師のもとで後任牧師を招聘、12月1日に二宮創牧師の就任を経験しました。わずか半年で、これらを見事に成し遂げたのは、太田の教会をこよなく愛しておられる真の牧者、主イエスさまのお計らいに他なりません。
この美しい会堂に入って、礼拝室の一番後ろに立って、朝陽の射し込む正面の丸窓を見上げながら、十五年間、私は同じ祈りをささげてきました。「主よ、この教会はあなたのものです。あなたの御言葉にお仕えします。主よ、どうかお語りください。しもべは聞いております。私があなたの邪魔をするようなことが、ありませんように。」
牧師として赴任以来、アドベントとクリスマス、マタイ福音書の年に始まって、ルカ福音書の年、ヨハネ福音書の年と、キリスト降誕の説教を語ってきました。そのあとも三年周期の説教を繰り返してきた十五年間は、私の生涯の宝物となりました。あと二年、これまでとは趣向を変えて、説教を語りたいと願っております。
キリスト降誕を詳細に物語る聖書の記事は、マタイとルカの両福音書に限られます。ヨハネ福音書は降誕前のキリストの永遠性を証しします。クリスチャンとして、さらに成熟してクリスマスを黙想するには、新約聖書の生い立ちを知る必要があるでしょう。新約聖書27巻の成立順序は、私たちの慣れ親しんでいる配列順序とは違います。
新約聖書として収録されてゆくことになる文書群、その最も古い物は、紀元50年代に記された「真正パウロ書簡群」であり、Ⅰテサロニケ・ガラテヤ・Ⅰコリント・Ⅱコリント・フィレモン・フィリピ・ローマの順に成立したと考えられています。いっぽう「福音書群」は、70年代にマルコ、80年代にマタイ、90年代にルカとヨハネの順で成立したと考えられているのです。つまり、キリスト教の最も古い時代、使徒パウロが宣教した時代には、パウロも信徒たちも、のちにマタイやルカが記すような降誕物語を知りませんでした。真正な書簡群のなかで、使徒パウロが「キリスト誕生」について直接言及しますのは、ただ一箇所のみです。『時が満ちると、神は、一人の女から生まれ、律法のもとに生まれた、自らの子を送ってくださった。それは、律法のもとにある者たちを、彼が贖い出すためであり、私たちが神の子としての身分を受けるためであった。』ガラテヤ書4:4-5(新約聖書岩波版青野訳2023)
この記事を、2024年クリスマス記念礼拝にて取り上げます。最古の時代の信徒らは、使徒パウロの言葉をどのように理解していたのでしょうか。そもそも、パウロ自身は、十字架の死を遂げる以前のイエスさまとの面識がありません。彼は、ペトロやヨハネのような使徒的権威を持ち得るのか、常に疑われてきた人物でした。だからこそ、生前のイエスさまの言葉と業について、パウロは大きな関心を寄せていたに違いありません。パウロ自身、キリスト誕生について、どのような理解を得ていたのでしょうか。
『時が満ちると』と訳されたギリシア語表現は「ote hlTHen to plhrwma tou Xronou」、直訳すると「When came the fullness of-the time」「時代の充満が到来した時」という意味です。天地創造以来、時の流れ(Xronos)を支配なさる創造主は、理性的被造物なる人類を救済しようと摂理なさいました。この摂理を<一つのコップ>に譬え、コップに神が注ぎたもう水を<律法の時代の旧約の恵み>に譬えるなら、長い時代をかけて注がれてきた水が、いよいよコップに充満し、今にも水がコップの容量を超えて溢れ出ようとする時、すなわち<福音の時代の新約の恵み>がユダヤ民族から全人類へと拡がり行こうとする時、というイメージで理解することができましょう。
『神は自らの子を送ってくださった』。ここで「送ってくださった」と訳された動詞は「exapesteilen(exapostellwの第一不定過去)」で「いよいよ派遣なさった(任務を果たさせるため)」という意味です。「自らの子を」と訳された表現は「ton uion autou」「神御自身の独り子を」という意味です。父なる神は御自分の独り子を、特定の任務を果たさせるために、人の世にいよいよ派遣なさいました。その任務とは「生まれた」という動詞の繰り返しによって強調されます。
神の御子は『一人の女から生まれ、律法のもとに生まれた』。「生まれた」と訳された動詞は「genomenon(ginomaiの第二不定過去分詞)」で「生まれ出た(歴史上ただ一度)」という意味です。注目すべきことの一つは、「一人の女から」生まれ出た、という語り口です。「あの有名な女性から」ではなく「名もなき女から」生まれ出た。それはすなわち「何ら特別なこともない一人の人の誕生」を意味します。ここで「女」と訳される言葉「gunh(ギュネー)」は「結婚を許される年齢の女性」を意味します。真正パウロ書簡群では、男性との婚姻関係における「女性」(同7:1,27)、一人の姉妹と呼べる信徒としての「妻」(同9:5)、古代世界での男性との社会関係における「女性」(同11:3)、古代教会での倫理観における「女性」(同14:34)、実際に結婚している「女性」(ローマ7:2)。これ以外の意味で語られることはありません。のちにマタイやルカが描くような、受胎告知を受けた特別な女性とか、聖霊によって受胎したおとめとか、そのような女性像は真正パウロ書簡群には、まったく見当たらないのです。「名もなき一人の女性から、何ら特別なこともなく、一人の人として誕生した」。これが、神の御子の使命の一つでした。
もう一つの注目すべきことは、「律法のもとに」生まれ出た、というパウロの表現です。「upo nomon(under law)」は、モーセ五書に記された数えきれないほどの「複数の律法の支配下に」という意味ではなく、具体的には特定されない「単数の律法の拘束下に」という意味です。この同じ表現が、すぐあとの文章で繰り返されます。「それは、律法のもとにある者たちを、彼が贖い出すため」であったと。「律法のもとにある者たち」は、神の御子によって贖い出されるべき存在であったと、パウロは述べます。この思想は、ガラテヤ書2:19において用意され、3:14において展開された思想を前提とします。
『実際、私[パウロ]は、神に対して生きるために、律法を通して律法に対して死んだのである。私はキリストと共に十字架につけられてしまっている。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちで生きておられるのである。今、私が肉において生きているこの生命を、私を愛し、私のために自らを死に引き渡された神の子への信仰において、私は生きているのである。』ガラテヤ2:19-20
パウロは、自分が「神の子への信仰において生きている」「今、肉において生きている」「神に対して生きる」というキリスト者の実存を語りました。それはパウロが「律法を通して律法に対して死んだ」という事実と不可分であり、その状態を「キリストと共に十字架につけられてしまっている」と表現しました。この表現は、「律法を通して律法に対して死ぬ」ということが「十字架につけられてしまっているキリスト」にも妥当するのだ、という思想を反映します。
パウロが「律法を通して」と語る場合、彼自身の過去、異常なまでに正統的であったユダヤ教ファリサイ派の実践を念頭に置いています。自分たちの律法解釈のみを正統とし、それ以外を異端として排除した「徹底的な律法主義」こそ、イエスさまを十字架につけたのだ、という歴史認識です。それゆえ、ユダヤ教徒からキリスト信徒に改宗したパウロは、自分自身も「律法(律法主義)に対して死んだ」と認識し、それを「キリストと共に十字架につけられてしまっている」と表現したのです。したがってパウロの言う「律法のもとにある者たち」とは、律法主義者たちによって迫害され、排斥され、抹殺される定めにある人々を指します。その人々を生かすため「自らを死に引き渡す」使命を帯びて生まれたのが「神の子」でした。
『キリストは私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださった。というのも、こう書かれているからである。「木にかけられる者はすべて呪われている」。』ガラテヤ3:13
パウロは、十字架につけられてしまっているキリストを、旧約律法を引用する仕方で解釈しました。申命記21:23「木に掛けられた者は<神に>呪われた者だからである。」ナザレのイエスを宗教的逸脱者と見なし、政治的反逆者に仕立て上げ、十字架に掛けた者らは、この律法に依拠して、イエスを「神によって呪われた者」と嘲り、蔑みました。しかしパウロは、同じ律法を引用する際<神によって>の文言を削除します。イエスさまを呪ったのは、神ではなく、イエスさまを十字架に掛けた律法主義者たちだからです。したがってパウロの言う「律法の呪い」とは、やはり「律法主義に立つ者たちによって迫害され、排斥され、抹殺される定めにあること」を意味するのです。
ユダヤ教ファリサイ派に代表される律法主義者は、律法を守らないユダヤ人のみならず、律法を持たない異邦人もすべて、不敬虔な神なき者と見なし、その者たちの弱さ、愚かさ、躓きは、律法違反に対する神からの呪いだと見なします。この律法の呪いから、呪われた人々を「贖い出す」ため、自ら「呪いとなる」ために「律法のもとに生まれる」ことが、キリストに課せられた使命だったのです。
このような使命を帯びて誕生した神の子の存在と、律法を守れない人だけでなく律法を持たない人をも無条件に愛して赦したイエスの福音こそ、律法主義者たちを激怒させ十字架の惨禍を惹き起こしました。それはまた「律法の終わり」(ローマ10:4)でした。神の子の誕生に始まり、イエスの死で終わるのは、律法の呪いでした。律法主義者たちの惹き起こした呪いを、キリストが自ら呪いとなることで、律法主義そのものを無力としたのです。律法そのものは、私たちの『後見人、管理人』(ガラテヤ4:2)です。
パウロの言う「贖い出し」(ガラテヤ3:13,4:5)は、複数の律法(諸々の掟)に対する複数の違反(諸々の罪)からの贖罪ではありません。そうではなく、単数の律法(律法主義)の呪いからの贖い出しです。「贖い出す」と訳された動詞「exagorazw」は一般的に「身代金を払って解放する」という意味です。律法主義の呪いのもとに奴隷となっていた人々を解放するために、キリストが呪われた奴隷と成りたもうた。神の御子が自ら身代金と成ることで、人々が律法の呪いから解放された。これぞ「十字架の逆説」です。
もはや、律法を守れない人が呪われることはありません。律法を持たない人が呪われることもありません。弱さは呪いではなく、神の力が現れる所です。愚かさも呪いではなく、神の賢さが現れる所です。躓きも呪いではなく、神の救いが現れる所なのです。このような「十字架の逆説」(Ⅰコリント1:25)があって初めて、私たちは律法主義の呪いから解放されるとともに、神の子への信仰において、神からの無条件の愛と赦しとを無償で提供されるのです。
こうして贖い出された私たちは『神の子としての身分を受け』ます(同4:5)。実際に『神の子たち』として『神の子の霊、「アバ父よ」と叫ぶ霊』を授けられます(同4:6)。かくして私たちは『律法の呪いの奴隷』ではなくなり、キリストに結ばれた『神の子ら』として『神による相続人』(同4:7)となるのです。『キリストとの共同相続人』となった私たちは、キリストと『共に栄光を与えられるために』、キリストと『共に苦しんで』もいます(ローマ8:17)。苦しみも呪いではなく、キリストの栄光が現れる所です。
2024年のクリスマス、神の子の誕生を、十字架の逆説とともに、お祝いしましょう。
祈り―詩編102による
愛しまつる主イエスよ、苦難の日に御顔を隠さず、私に耳を傾け、速やかに答えたまえ。慕いまつる神の御子よ、私の日々は煙のように消え、私の心は草のように焼かれました。崇めまつるキリストよ、あなたは、すべてを失った者の祈りを顧み、願いを聞かれます。仕えまつる平和の君よ、あなたは、聖なる高き所から、地の低き所にへりくだられます。聖霊よ、今すぐ捕らわれ人の呻きを聞きたまえ。死に定められた子らを解き放ちたまえ。御父よ、道半ばで私の力を挫き、私の人生を縮めた神よ。十字架の逆説を見させたまえ。主の御名によって祈ります。アーメン