説教(信条講解)
『摂理は万事を益に整える』ウ信仰告白5:4-7
万物の創造主は、万事を摂理なさる神。<摂理の主体>は「万物の偉大な創造者である神」であり、<摂理の客体>は「あらゆる被造物と活動と物事、最大のものから最小のものまで」でした。<摂理の要因>は「無謬の予知と、御自身の御心の自由で不変の計らい」であり、<摂理の御業>は「保持と統治と導き」でした。また<摂理の目的>は「神の知恵・力・正義・善・憐れみの栄光が讃美される」ためでした(ウ告白5:1)。
<摂理の要因>について、その<第一原因>は「神」御自身であり、神による<直接的な摂理>は万物に対して「聖定と予知との関係で、不変的に、また無謬的に起こってくる」のです。<第二原因>は神以外の「天地万物(森羅万象、自然法則)」であり、神による万物を介した<間接的な摂理>は「第二原因の性質に従って、必然的に、あるいは自由に、もしくは偶然に、生起するように秩序づける」のです(5:2)。
<摂理とその手段>について、<通常の摂理>の場合「神は手段[すなわち第二原因]をお用いになる」のです。しかし<特別の摂理>の場合「神は手段なしで[すなわち第一原因である神御自身の聖定と予知において]、通常の手段[である天地万物、森羅万象、自然法則]以上に、また[それら]に反して、自由に働かれる」のです(5:3)。
その最たる例が、キリストの死と復活でした。神は、人の罪や世の悪をも手段としてお用いになり、罪なき御子の十字架の死という摂理を成し遂げられました。しかも神は何も手段を用いないで、人間の常識に反して、自然の法則を超えて、御子の復活という摂理をも成し遂げられたのです。今回は、ウエストミンスター信仰告白(1647年)第5章<摂理>の後半部分、理性的被造物に対する<摂理の展開(4-7節)>について学びます。
ウ告白5:4『神の全能の力と測り知れない知恵、無限の善は、かれの摂理の中に非常によく現れるので、[第一に]それ[神の摂理]は、[理性的被造物の]最初の堕落と、天使および人間の他のすべての罪とにまで及んでおり、[第二に]しかもそれは、単なる許容によるのではなく、許容に加えて神が、罪を、御自身の聖なる目的に役立つように、多様な方法で、最も賢く、力強く制限し、さもなければ、秩序づけ、統治することによる。しかしそれでも、そうした場合の罪性は、ただ被造物から出るのであって、[神は]最も聖く義しくいますので、罪の作者や支持者ではなく、また、そうではありえない、[その神から、罪性が]出るのではない。』
ここに告白された信仰は、<理性的被造物の堕落と罪に対する神の摂理>についての聖書教理です。※根拠(ローマ11:28-33,使徒14:15-19,創世記50:20,詩編76:8-11,ヤコブ1:13-15,Ⅰヨハネ2:16)
この信条本文は、『アイルランド宗教条項』(1615年)第28条を下敷きにしています。「神は罪の創造者ではない。とはいえ、神は罪が働くことを許容されるだけでなく、さらに御自身の摂理によってこれを支配し、整序し、御自身の無限の知恵によって、罪が神の栄光を現わし、神の選びの民に仕えるものに転換するよう、これを導かれる。」
人間の堕落と罪に対する神の摂理の中に、「神の力・知恵・善は非常によく現れる」のであり、それは「アダムの最初の堕落と、全人類のすべての罪にまで及ぶ」のです。この摂理は「単なる許容」ではなく、「神御自身の目的と働きによる」ものなのです。しかし「罪性」は「被造物から出る」のであって、「神から出る」のではありません。
けっして神からではなく、もっぱら被造物から出る「罪性sinfulness」については、この箇所に関連して、ウ告白で数か所、言及されます。16:7「神を喜ばせることはなく、人を神の恵みにふさわしくすることもない、罪深さ」。19:6「人の本性と心と生活が罪に汚れている有様」。22:2「神の御名によって、みだりに、或いは軽率に誓うことは、嫌悪されるべき罪深さ」。22:7「終生の独身、修道者となる清貧、年長者への服従、といった教皇主義による修道誓願は、迷信的で罪深い罠」。
神の摂理は、消極的に人の罪深さを「permit許容する」だけでなく、むしろ積極的に神が罪性を「bound制限し」「order秩序づけ」「govern統治する」よう働くのです。
神の摂理は、人間の堕落と罪を、ただ人間の責任として突き放すのではなく、むしろアダムの最初の堕落に始まって全人類に拡がった罪全体にまで「extend及ぶ」のです。それは創造主としての責任を、摂理において果たされる、ということに他なりません。
ウ告白5:5『最も賢く、義しく、恵み深い神は、しばしば、御自身の子たちをしばらくの間、誘惑と、かれら自身の心の腐敗にまかせておかれる。それは、[第一に]かれらを以前の罪のゆえに懲らしめるため、あるいは、かれらが謙虚にさせられるよう、かれらの心の腐敗と虚偽の、隠れた強さをかれらに対して露わに示すためであり、また[第二に]、助けを求めて、かれ[神]自身に、よりいっそう、絶えず寄り頼むよう、かれらを励ますため、また、将来のあらゆる罪の機会に対してかれらをより警戒させ、他の正しく聖い様々な目的を目指すようにさせるためである。』
ここに告白された信仰は、<選びの民の罪に対する神の摂理>についての聖書教理です。※根拠(詩編73:1-28,Ⅱコリント12:7-10,マルコ14:66-72)
この信条本文も、『アイルランド宗教条項』第24条を下敷きにしています。「人間の本性の腐敗は、再生した者の中にさえ残存しており、そのために肉は常に霊に逆らって情欲を抱き、神の律法に服従させられることはない。この情欲が罪の本性を持っている。しかしそれでも、キリストのゆえに再生し信じている人は断罪されることがない。」
神の永遠の聖定において、キリストにあって選ばれ、聖霊によって召された者たちにも、残れる罪があります。そこで神は、かれらを「一時的に」罪に引き渡し、外的には「誘惑に」、内的には「心の腐敗に」「まかせておかれる」。その目的は、消極的には「以前の罪のゆえに懲らしめ」「心の腐敗と虚偽を露わに示して謙虚にさせる」ため、積極的には「神に対して助けを求め、寄り頼むよう励まし」「自らに対して罪を警戒させ、正しい目的を目指すようにさせる」ためです。
神の摂理は、御自分の民に、罪を「watch警戒させ」、神に「depend寄り頼む」よう励まします。神の摂理は、御自分の民を残れる罪ゆえに「chastise懲らしめ」、腐敗と虚偽を示して「humble謙虚にさせ」ます。ときにはしばらく、自分の民を、誘惑と心の腐敗に「dath leaveまかせておかれる」のです。
神が御自分の民を、一時的に罪に「まかせておく」という表現は、この箇所だけです。「leave」は、この文脈では「罪の中に置き忘れる」とか「置き去りにする」という意味はありません。あくまでも一時的に「罪の状態のままにしておく」ことによって、民を懲らしめて謙虚にさせ、罪を警戒させて神に寄り頼むよう、励ますためです。創造主は摂理の神として、私たちの罪に、とことん付き合ってくださいます。
ウ告白5:6『神は、義しい審判者として、邪悪で不信仰な者たちについては、以前の罪のゆえに目を見えなくし、頑なにしてしまわれる。神は、[第一に]それによってかれらの理解力を照らし、心に働きかけていたはずの、御自身の恵みを、かれらにお与えにならないだけでなく、時にはまた、かれらが持っていた賜物までも取り上げて、かれらの腐敗のせいで罪の機会となってしまう事物にかれらを晒し、[第二に]その上かれらを、かれら自身の欲望と世の誘惑、サタンの力に引き渡してしまわれる。その結果、神が他の人々をやわらかにするのにお用いになる手段のもとにおいてさえも、かれら[邪悪な者たち]が自らを頑なにしてしまう、ということが起こるのである。』
ここに告白された信仰は、<邪悪な不信仰者の罪に対する神の摂理>についての聖書教理です。※根拠(ローマ1:24-32,マタイ13:10-15,詩編81:12-13,Ⅱコリント2:15-16)
この信条本文も、『アイルランド宗教条項』第23条を下敷きにしています。「原罪は、本性上アダムより生じ、各人に伝搬された本性の欠陥と腐敗である。それによって人間は原義を取り上げられ、本性からして罪に傾くものとなった。それゆえに、この世に生まれた人は誰でも、神の怒りと呪詛を受けるのが当然である。」
神に敵対し、神の民を迫害する、邪悪な不信仰者があります。そこで神は、消極的にかれらに「恵みを与えず」、かれらの「賜物を取り上げ」、積極的に「罪の機会となる事物にさらし」、「かれら自身の欲望と、世の誘惑と、サタンの力に引き渡す」のです。「その結果、他の人々をやわらかにする手段も、かれらを頑なにする」ことになります。
神は、永遠の聖定に基づいて、御心のままに自由に、キリストにあって選んだ者たちを「softenやわらかにし」、そうではない者たちを「harden頑なにする」のです。
神が選びの民を「やわらかにする」という表現はここだけです。そうではない者たちを「頑なにする」という表現との対比であることは明らかです。しかしウ告白は、神によって選ばれ、召され、堅忍する「聖徒たち」も「頑なにされる」事実を見逃しません。17:3「聖徒たちは、サタンと世のさまざまな誘惑、かれらの内に残っている腐敗の勢い、かれらを守ってくれる手段を無視すること、によって、ひどい罪に陥り、しばらくの間その中に留まり続けることがある。それによってかれらは、神の不興を招き、神の聖霊を悲しませ、自分たちに与えられている霊的賜物と励ましを、ある程度取り去られるに至り、その心は頑なにされ、良心は傷つけられ、他の人々を傷つけ、躓かせ、かくして自分たちに一時的な審判を招く。」人は誰しも、頑なに成り得ると、神は御承知です。
ウ告白5:7『神の摂理は、一般的に、あらゆる被造物に及ぶが、それだけでなくまた、最も特別なしかたで、かれの教会のために配慮し、万事をその益となるよう整える。』
ここに告白された信仰は、<神の摂理の一般対象と特別な対象>についての聖書教理です。※根拠(イザヤ43:1-7,ローマ8:18-30)
この信条本文が示す真理は、『ローマ・カテキズム』(1566年)には見当たりません。プロテスタント諸信条では、『スコットランド信仰告白』(1560年)第5条が、間接的に示唆するのみです。「我々が最も確かなこととして信じるのは、神はアダムの時から、キリスト・イエスの肉における来臨までのすべての時代にわたって、教会を保ち、導き、増し加え、栄えと誉れを与え、死から命へと呼び出されたことである。」
神の摂理は「一般的には全被造物を」対象としますが、「特別には神の教会を」対象とします。その目的は、神の教会を配慮し、万事が益となるようにと「dispose整える」ためです。この動詞は、ウ告白であと一回、この同じ章の冒頭に現われます。
摂理について。5:1「万物の偉大な創造者である神は、かれの知恵・力・正義・善・憐れみ、の栄光が讃美されるよう、あらゆる被造物と活動と物事を、最大のものから最小のものまで、[第一に]かれの最も賢く聖い摂理により、[第二に]その無謬の予知と、御自身の御心の自由で不変の計らいとに従って、支え、導き、整え、統治される。」
前回、お話しした通り、ウ告白は「摂理の要素」について、アイルランド宗教条項の規定「存続、増殖、秩序づけ」を踏襲せず、むしろローマ・カテキズムの規定「保持、統治、導き」を継承しました。この三要素に「整える」を追加するところに、ウ告白の特徴があるのです。「uphold支え」「direct導き」「govern治める」に加え「dispose整える」。神は摂理において何を整えるのか。「神の教会での万事を」整えるのです。どのように整えるのか。「万事が益となるよう」整えるのです。その益は誰のためか。それは神の教会のためです。根拠となる聖句、ローマ書8:28-30において明らかです。『神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようと、予め定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです。神は予め定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とした者に栄光をお与えになったのです。』
祈―ローマ8:28-30による
愛しまつる主イエスよ、あなたの教会は、神の永遠の聖定において選ばれた群れです。慕いまつる神の御子よ、あなたの教会は、あなたにあって選ばれ、召された群れです。崇めまつるキリストよ、あなたの教会は、あなたのかたちに似た者とされる群れです。仕えまつる平和の君よ、あなたの教会は、あなたと共に義とされ挙げられる群れです。聖霊よ、私たちと共にいて下さい。教会には、嬉しいことも、悲しいこともあります。御父よ、私たちはあなたを愛しています。教会での万事を、私たちの益として下さい。主の御名によって。アーメン