説教(聖書講解)
『父が独り子に与える者皆』ヨハネ福音書6:41-51a,60-71
イエス様は、御自分のところへ来た人々に、仰せになりました。「私がその生命のパンである。私のところに来る人は、決して飢えることがない。私を信じる人は、決して渇くことがない。しかし、あなたがたは私を見てきたのに信じようとしない。父が私に与える者は皆、私のところへ来ることになり、私のところへ来る人を、私が外へ追い出すようなことは決してない。」(6:35-37)
「私が生命のパンである」。この言葉は、イエス様の自己啓示、御自分が何者であるかを比喩的に宣言する言葉でした。同時に、人々への自己提供、御自身をあたかも食べ物・飲み物として提供すると表明する言葉でした。イエス様がこう表明なさり、宣言なさるのは、確証があったからです。神による認証がありましたから、イエス様は「生命のパン」として、「私のところに来る人は、決して飢えることがなく、私を信じる人は、決して渇くことがない」と表明されたのです。父による保証がありましたから、イエス様は「人の子メシア」として、「父が私に与える者は皆、私のところへ来ることになり、私のところへ来る人を、私が外へ追い出すようなことは決してない」と宣言されたのです。
しかし、イエス様は察知しておられました。「人の子メシア」としての自己啓示の宣言を、人々はまだ信じることができていないことを。「生命のパン」としての自己提供の表明を、人々はまだ受け入れることができていないことを。それでもイエス様はあきらめておられません。イエス様は「父の独り子」として、父の御心をよく御存知だからです。「イエスのところへ来る人」は、「父がイエスに与える人」だからです。
そこでイエス様は、さらに仰せになりました。「私が天から降って今ここにいるのは、自分の意思を行なうためではなく、私を派遣した方の意思を行なうためだからである。父が私に与えてくださっている者を皆、私が一人も失うことなく、終わりの日に甦らせること、これが私を派遣した方の意思である。つまり子を見て父を信じる人が皆、永遠の生命を持ち、私がその人を終わりの日に甦らせること、これが私の父の意思なのである。」(6:38-40)
父の御意思は、人の子メシアが「終わりの日に」「子を見て父を信じた人を皆」「一人も失うことなく」「死から命へ甦らせること」だけでなく、生命のパンであるイエス様が「今ここで」「父が子に与えておられる者を皆」「永遠の生命に与からせること」でした。父の御意思を行なうために、イエス様は天から降って、紀元一世紀初頭の約三十年間、ユダヤ人社会に遣わされていました。弟子たちとの最後の晩餐においてだけでなく、十字架に上げられ、父のもとに往かれた後も、聖霊を「もう一人の弁護者」として遣わし、紀元一世紀末のヨハネ共同体の主の晩餐の礼典においても、人の子メシアは父の御意思を行なっておられました。そして、二十一世紀の太田教会が今ここで執行する聖餐式においても、生命のパンであるイエス様は父の御意思を行なっておられます。今も昔も、父が御子に与える人々は、イエス様のところに来るのです。
イエス様のところへ来た人々は、イエス様の自己啓示と自己提供の御言葉を聞いて、ささやき始めます。「この男はヨセフの息子イエスではないか。俺たちにはその父親も母親もわかっているではないか。どうして今さら自分を、天から降って来たパンだ、などと言うのか」と。ヨセフとマリアの長男イエスは、ナザレの村人のひとりに過ぎない。紛れもなくただの人間に過ぎない。その人間が、終末的に到来する「人の子メシア」を自称するとは何事か。しかも自分を、天から啓示のしるしとして「天来の生命のパン」だと主張するとは何事か。イエス様のところに来た人々が、このようにささやき始めました。この人たちは皆、父が御子に与える人々?なのでしょうか。
ヨハネ福音書6:43-46『イエスは答えて、彼らに言った、「互いにささやくのはやめなさい。私を派遣した父が引き寄せるのでなければ、だれも私のところに来ることはできない。そして私は彼を終わりの日に甦らせることになる。預言者たちの書に、彼らは皆、神に教えられた者になるだろうと書かれている。父から聞いて学んだ人は皆、私のところに来る。誰か父を見てきた人がいるのではない、父のもとから来た者を除いては。この者こそが父を見てきたのである。・・』
「互いにささやくのはやめなさい」と、イエス様は人々をお諫めになります。ここで「ささやく」と訳された言葉gogguzw(ゴンギュゾー)は「小声で話す」という意味の他「ぶつぶつ文句を言う」という意味があります。この文脈では、イエス様の自己啓示と自己提供の御言葉に対して、人々が「ぶつぶつ文句を言い」「小声でひそひそささやき」始めたということです。この人々は、物理的にイエス様の面前まで来訪したのですが、その人々が皆、父が御子に与える人々だとは限りません。「私を派遣した父が引き寄せるのでなければ、だれも私のところに来ることはできない」と仰せの通りです。
父が御子に「与える」人とは、父が御子に「引き寄せる」人でなければなりません。その人はもともと、父なる神のものでした。その人が、御子のものとして、その身柄も生命も、イエス様に与えられます。それが実現するのは、もっぱら父が、その人を御子に引き寄せることによってです。その人自身はもっぱら客体であって、主体となることはありません。人間に不可能なことを、神が可能となさる、ということです。
父によって御子に引き寄せられた人は、「神に教えられた者」「父から聞いて学んだ人」でなければなりません。すなわち、旧約預言にある神の言葉に聞き、父の御旨を学び、そのようにして教えられた人です。『主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、「主を知れ」と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである。主の仰せ。私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない』(エレミヤ31:33-34)。
このようにして旧約預言にある神の言葉を聞き、父の御旨を学び、教えられた人こそ、父が御子に引き寄せ、与えた人です。この人こそ、イエス様のところに来るようにと、神によって導かれる人です。
そこでイエス様は、もう一つの自己啓示を語られます。「父のもとから来た、私イエスだけが、父を見てきた」のだと。『いまだかつて、誰も神を見たことがない。父の胸中にいる、ひとり子なる神(すなわちイエス)こそ(父なる神を)解き明かした』(1:18)。ゆえに、イエス様の言葉を聞く者は、神の言葉を聞くのであり、イエス様の御業を見る者は、神の御業を見るのであり、イエス様を信じる者は、神を信じるのであり、イエス様を愛する者は、神を愛するのである。そのようにされた人を、人の子メシアが終わりの日に甦らせる。これが父の御意思です。
ヨハネ福音書6:47-51a『・・アーメン、アーメン、あなたがたに言う、信じる人は永遠の生命を持っている。私は生命のパンである。あなたがたの父祖は荒野でマナを食べた。そして死んだ。これは、人が食べると死なないように、天から降って来るパンである。私は、天から降って来た、活けるパンである。人がこのパンを食べるなら、永遠に生きることとなる。」』
ここでイエス様は、自己啓示と自己提供の御言葉を、もう一度繰り返し、語られます。それは、イエス様の面前でぶつぶつ文句を言い、小声でひそひそささやいている人々に、御自身の言葉を神の言葉として聞くようにと、迫っておられるのです。御子の面前にいる人々の中から、一人でも二人でも、神の言葉を聞き、父の御旨を学び、教えられて、真実に、イエス様のところに来る人が起こされるように。これが父の御意思です。
ヨハネ福音書6:61-65『イエスは、自分の弟子たちがこれについてささやいているのが自分の中でわかり、彼らに言った、「このことがあなたがたを躓かせるのか。それなら、人の子が前にいたところへのぼっていくのを見るなら、その時には。霊こそが生かすものであって、肉は何の役にも立たない。私があなたがたに語ってきた言葉は、霊であり、命である。しかし、あなたがたの中には、信じない人たちがいる。だからこそ、父から与えられているのでなければ、誰も私のところに来ることはできないと言っておいたのだ。」』
父なる神を啓示する独り子イエスの言葉と業は、人間的な尺度から見れば、必ずしも目覚ましい成果を上げたとは言えません。むしろ、全く無毛な結果に留まっています。押し寄せた群衆がぶつぶつ文句を言い、小声でひそひそささやいているだけではありません。多くの弟子たちまでもが、「イエスの言葉には歯が立たない。誰がこれを聞いていられようか」(6:60)と、耳を閉ざす有り様だからです。
この現実を目の当たりにしながら、イエス様は、さらに大きな秘密を明かされます。父の独り子が天から降って来たこと、その真理に躓くのであれば、人の子メシアが前いたところ、すなわち天へ昇って行くのを見るなら、弟子たちは、さらにもっと躓くであろうと。神の御子が十字架で殺害されること、世の罪が主の僕を十字架にかけて殺害すること、この出来事そのものが躓きとなります。キリストの弱さと愚かさが躓きとなります。十字架の呪いが躓きとなるのです。
イエス様はかつて、こう語られました。「アーメン、アーメン。人は水と霊によって生まれなければ、神の王国に入ることができない。肉から生まれているものは肉であり、霊から生まれているものは霊である」(3:5-6)。イエス様の言葉遣いにおいて「肉」とは「人間の生来の自然的生命とその可能性」を意味します。それとは決定的に、徹底的に、最終的に対立する概念として、「霊」とは「神からの天来の霊的生命とその可能性」を意味します。霊と肉との対立関係を、イエス様はここで明言なさいます。「霊こそが、人間の生命を生かすものであって、肉は永遠の生命に何の役にも立たない」と。その意味で、「父が子に与えた人でなければ、誰も私のところに来ることはできない。私があなたがたに語ってきた言葉は霊であり、命である」と仰せです。この時以来、イエス様の弟子たちの中から「多くの者が離れ去り、もはやイエスと共に歩もうとしなくなった」(6:66)。
ヨハネ福音書6:67,70『そこでイエスは、十二人に言った、「あなたがたも去って往こうというのか。・・あなたがた、この十二人を選び出したのは私ではなかったか。しかし、あなたがたの中の一人は悪魔である。」』
ここに表明されたのは、まさに、イエス様の愚かさ、すなわち、神の愚かさ。さらに、父の御子の弱さ、すなわち、父の弱さ。しかし、この弱さは、人間よりも強いのです。この愚かさは、人間よりも賢いのです。十字架の逆説(Ⅰコリント1:18-25)によって、私たち人間を救う。これこそ、父の御意思です。
人間は、自分自身の力では、自分で回心することも、回心の備えをすることもできません(ウ告白9:3)。御言葉に啓示されている事柄を、救いに至るように理解するためには、聖霊の内的な照明が必要です(同1:6)。神の選びの民のみが、キリストによって贖われ、有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ、救われます(同3:6)。神は、永遠の命に定めておられるすべての者たちに、聖霊を与え、かれらが進んでキリストを信じるように、また信じることができるようにして下さいます(同7:3)。聖霊は神の民の意志を新たにし、全能の御力により、それを善へと向かわせ、キリストへと引き寄せます。ゆえにかれらは、自ら進んで、全く自由に、キリストのところに来ます(同10:1)。今ここにいる私たちは、父が独り子に与えた人、神がイエスに引き寄せた者。私たちはそう信じることが出来るようにされ、そう信じて生きるようになるのです。
祈り―詩編89による
愛しまつる主イエスよ、あなたはダビデの末裔として見出され、油注がれたまことの王。慕いまつる神の御子よ、あなたは神を父に持ち、御父の独り子として神を啓示なさる方。崇めまつるキリストよ、あなたは神の民の長子とされ、地上の諸王の中で最も崇高な方。仕えまつる平和の君よ、あなたは契約の仲保者として、慈しみとまことを提供なさる方。聖霊よ、神が選んでおられる人々を召し出して、キリストによる贖いに与からせたまえ。御父よ、あなたが独り子に与え、御子に引き寄せた人々を、キリストの所に導きたまえ。主の御名によって祈ります。アーメン