説教(信条講解)
『神と人間との間の仲介者』ウ信仰告白8:1-3,8
私たちの信仰規準、ウエストミンスター信仰告白の第8章(キリスト論)は、第1章(聖書論)や第29章(聖餐論)とともに、信条全体において重要な位置を占めます。聖書教理の体系的表明にあたって、全体を束ねる役割を担うのが「キリスト論」です。
ウ告白8:1『神は、御自身の永遠の計画により、その独り子である主イエスを、神と人間の間の仲介者、預言者・祭司・王、自らの教会の頭また救い主、万物の相続人、世界の審判者として選び、任ずることをよしとされた。神は、その主イエスに対して、かれの子孫となり、時いたってかれにより贖われ、召命され、義とされ、聖化され、栄光を与えられる一つの民を、まったくの永遠からお与えになられた。』
このように表明されたのは、<仲介者the Mediator>であられるキリストとその民に関する聖書教理です。※根拠(詩編2:6,22:31 /イザヤ42:1,53:10/ ヘブライ1:2,5:5-6 /ヨハネ3:16,17:6)
神は御子イエスを、神と人との間の仲介者に<選びchoose><任じordain>ました。仲介者の職務は、<預言者・祭司・王the Prophet, Priest, and King>であり、キリストの立場は<教会の頭にして救い主the Head and Saviour of His Church><万物の相続者the Heir of all things><世界の審判者Judge of the world>でした。そして、神は主イエスに、かれの子孫となる一つの民を<与えたdid give>のです。その民は<全くの永遠からfrom all eternity>キリストに与えられ、<時至ってin time>贖罪~召命~義認~聖化~栄化という「救いの秩序ordo saltis」に与かるのです。
ウエストミンスター神学者会議において、神がキリストに一つの民を「全くの永遠から与えた」とする聖書解釈をめぐり、少数派がこれを「永遠の聖定」とは理解しがたいと述べました。多数派はこれを聴取しつつ、「永遠の聖定」という解釈を堅持しました。それは、聖書教理の体系において譲ることのできない解釈だったからです。
「神は、まったくの永遠から、起こってくることは何事であれすべて、御自身の御心の最も賢く聖い計らいにより、自由に、不変に、お定めになった」(3:1)。「人類の中の命に予定されている者たちを、神は、世界の基が置かれる以前から、永遠の栄光へと、キリストにあって選んでおられる」(3:5)。「神は、選びの民を栄光に定めておられるだけでなく、またそれにいたるすべての過程も、前もって定めておられる。それゆえに、選ばれている者たちは、アダムにおいて堕落してはいるが、キリストによって贖われ、しかるべき時に働く聖霊により、キリストに対する信仰へと有効に召命され、義とされ、養子とされ、聖化され、信仰をとおして神の力により救いに至るまで守られる」(3:6)。このように、「まったくの永遠から」神がキリストに与えた一つの民が、救いの秩序に与かります。父の御意志を遂行するために、御子イエスは「神と人との間の仲介者」に選ばれ、任じられたのです。
ウ告白8:8『キリストは、御自身が贖いを買い取っておられる者たちすべてに対して、その贖いを確実かつ有効に適用し、分かち与えられる。すなわち、キリストは、[第一に]かれらのために執り成しをし、御言葉において、また御言葉により、救いの奥義をかれらに啓示し、[第二に]信じて従うように、かれの霊によってかれらを有効に説得し、かれの言葉と霊によってかれらの心を治め、さらに[第三に]かれの全能の力と知恵により、また、かれのすばらしく、測りしれない配剤に完全に一致するしかたと方法で、かれらのすべての敵に勝利される。』
このように表明されたのは、キリストが御自分の民に適用なさる<贖いredemption>に関する聖書教理です。※根拠(詩編110:1 /ローマ8:9,14,34,15:18-19 /ヨハネ6:37,39,10:15-16,14:26,15:13,15,17:6,17)
キリストが贖いを適用する事実について。その対象は、キリストが贖いを<買い取ってpurchase>おられる者たちのすべてであり、その性質は<確実に><有効に>です。キリストが贖いを適用する仕方について。まず、民に対してキリストは、御自分の言葉と霊により、その民の外側で<執り成しmake intercession>、救いの奥義を<啓示しreveal>、その民の内側で<説得し><心を治めて>くださいます。また、敵に対してキリストは、全能の力と知恵により、測りしれない配剤で、事実として<勝利overcome>なさいます。
キリストの勝利は、仲介者の任務(執り成し、啓示、説得、統治)と密接不可分です。「贖いの御業は、かれの受肉後に初めて、キリストによって現実になされた」(8:6)。「義とされた者たちすべてを、神は、その独り子イエス・キリストにおいて、またかれのゆえに、養子とする恵みにあずかる者としてくださる。これによってかれらは、贖いの日のために証印され、永遠の救いの相続人として、もろもろの約束を受け継ぐ」(12:1)。「この確かさは、私たちが神の子であることを、私たちの霊とともに証しする、養子とする聖霊の証しに基礎を置く、信仰による無謬の確信である。この聖霊は、私たちが嗣業を受け継ぐ保証であり、聖霊によって私たちは、贖いの日のために証印されている」(18:2)。このようにして、キリストが買い取られた贖いは、キリストにあって選ばれた神の民に、仲介者の任務と勝利によって「確実かつ有効に」適用されるのです。
ウ告白8:2『三位一体の第二位格である神の御子は、父と同一の実体で、同等の、永遠の神そのものでいますが、時満ちて、御自身に人間の本性を、そのすべての本質的特性、および、さまざまな共通の弱さとともに、しかしそれでもなお罪なくして、取られた。すなわち、御子は、聖霊の力により、おとめマリアの胎に、彼女の実体を取って、宿された。かくして、神性と人性という、二つの完結した、完全で、別個の本性が、変化・合成・混合なしに、一人格において、不可分に結び合わされた。この人格こそ、まことの神にして、まことの人であり、しかしそれでも、一人のキリスト、すなわち神と人間の間の仲介者である。』
このように表明されたのは、三位一体の第二位格である<神の御子the Son of God>の本性に関する聖書教理です。※根拠(ガラテヤ4:4 /フィリピ2:6 /ローマ1:3-4,9:5 /ヘブライ2:14-17,4:15 /ヨハネ1:1,14)
神の御子の「受肉incarnation」について。その内的事実は、永遠の神が時満ちて、人間の本性をその共通の弱さと共に<取ったdid take>ことでした。<しかしなお罪なしにyet without sin>。その外的事実は、神の御子が聖霊の力により、おとめマリアの胎に<宿されたbe conceived>ことでした。また、受肉の結果である<二性一人格>について。<神性the Godhead>と<人性the Manhood>は、変化も合成も混合もせず、ただ<一人格においてin one person>結合したのです。この人格こそ、<まことの神very God>にして<まことの人very man>である、<一人のキリストone Christ>、すなわち、神と人との間の仲介者です。
ウエストミンスター神学者会議は、キリストの無罪性について、当初の案では「罪だけは除いてsin only excepted」他の人間性の要素はすべて取られた、と表現しました。討論のすえ最終的には、より端的に「罪なしにwithout sin」という表現に改めました。キリストが取られた人間性は、私たちの人間性と同じですが、ただ無罪性の一点において、罪ある他のすべての人間とは異なります。この真実を、「聖霊による身ごもり」と結びつけて説明するのは、ジュネーブ教理問答(1542)以来の伝統です。ただし、マリアの純潔性の強調を控えるのが、ウエストミンスター信仰告白の特徴です。
キリストの無罪性は、神と人とを和解させるために必要な、仲介者の属性です。その根拠は、ヘブライ的な贖いの思想です。『子たちは皆、血と肉とを持っているので、イエスもまた同じように、これらのものをお持ちになりました。それは、御自分の死によって、死の力を持つ者、つまり悪魔を無力にし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた人々を解放するためでした。確かに、イエスはアブラハムの子孫を助けられる。それで、イエスは、神の前で憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を宥めるために、あらゆる点できょうだいたちと同じようにならなければなりませんでした。この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです』(ヘブライ2:14-17,4:15)。
ウ告白8:3『主イエスは、このようにして神性に結合されたかれの人性において、聖霊でもってかぎりなく、聖別され、油注がれて、御自身の内に、知恵と知識のすべての宝を持っておられ、父は、すべて満ち溢れるものがかれ[主イエス]の内に宿るのをよしとされた。それは、かれ[主イエス]が、聖く、傷なく、汚れなく、恵みと真理に満ちて、仲介者と保証人の職務を遂行するのに、完全に備えられるためでした。この職務を、かれは、自らに引き受けたのではなく、かれの父によってそれに召されたのであり、父は、主イエスの手に一切の権能と審判をゆだねて、かれにその職務を遂行するようにとの命令をお与えになられた。』
このように表明されたのは、仲介者の職務への<召命call>に関する聖書教理です。※根拠(詩編45:8 /ヘブライ5:4-5,7:22,26,12:24 /ヨハネ1:14,3:34,5:22,27)
主イエスは仲介者の職務に召されました。その内的事実は、キリストが<聖霊で油を注がれたbe anoited with the Holy Spirit>こと、知恵と知識の宝すべてがキリストの内に宿ったこと、<仲介者と保証人の職務the office of a mediator and surety>遂行に備えられたことです。その外的事実は、父が御子をその職務に<召したcalled>こと、神がキリストにその遂行を<命じたgave commandment>ことです。
主イエスが「聖く、傷なく、汚れなく」恵みと真理に満ちて「仲介者と保証人の職務」を遂行する。このイメージこそ、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)にして、「諸々の天よりも高くなった大祭司」(ヘブライ7:26)に他なりません。興味深いのは、ウエストミンスター神学者会議で、少数派が「キリストにおいて選ばれた一つの民が、彼によって贖われ、召命され、義と認められ、聖化されるsanctified」という教理と、「主イエスが人性において、聖霊でもって油注がれ、聖別されたsanctified」という教理とを問題視した事実です。神の永遠の聖定による選びに基づいて、御子が受肉して、その人性において、聖霊の油注ぎを受けて、仲介者の職務に「聖別された」。同じく、神の永遠の聖定による選びに基づいて、キリストの一つの民が贖罪と召命と義認の恵みに与かり「聖化された」。日本語では、信徒の「聖化」とキリストの「聖別」は明確に区別されて訳されますが、信条原文の英語は同じ動詞「sanctified」なので厄介です。恐らくこれは、十七世紀当時の英訳聖書(欽定訳)の訳語が影響をした結果でしょう。キリストは、世の罪を取り除く神の小羊として聖別され、唯一かつ永遠の大祭司としての職務遂行に備えられました。それは、御自分の一つの民を聖化するためでした。
今回は、「仲介者キリストとその民」(1節)、「キリストの民への贖いの適用」(8節)、「キリストの受肉による二性一人格」(2節)、「キリストの仲介者職への召し」(3節)について学びました。次回は、「仲介者の職務」「その御業と特質」について学びます。ウエストミンスター信仰告白が表明する聖書教理の体系全体を束ねる「キリスト論」は、改革派信徒として習得すべきもの、教会役員が信仰規準として誓約すべきものです。
祈―詩編45による
愛しまつる主イエスよ、私の心に湧き立つ美しい言葉、私の詩を、あなたに歌います。慕いまつる神の御子よ、あなたは人の子らの誰よりも美しく、唇は優雅に語られます。崇めまつるキリストよ、神はあなたを祝福し、威厳と輝き、真実と謙虚を賜りました。仕えまつる平和の君よ、あなたの王座はとこしえに、あなたの王権は公正な支配です。聖霊よ、あなたは王の装束を流れ滴り、没薬や沈香やシナモンに勝る香りを放ちます。御父よ、義を愛し悪を憎むあなたは、御子に油を注ぎ、大祭司にお召しになりました。主の御名によって。アーメン