説教(信条講解)
『神の側の遜りによる契約』ウ信仰告白7:1-6
神は、人間を男性と女性に、御自身のかたちに似せて創造なさいました。神のかたちである人間は、理性ある霊魂を持ち、知恵と義と真の聖さを授けられ、心の中に記された神の律法と、その律法を果たす力を持ち、その遵守も違反も自分自身の意志の自由にまかされた存在でした。心に記された律法と、善悪の知識の木の実を食べてはならない(神のみぞ知ることを人は知ろうとしてはならない)という命令を受け、これを守った人は、神との交わりの中にあって幸せでした。楽園において、他の被造物を神の御心に従って治める、人間の尊厳と平等の実像を体現したのです。(ウ告白4:1-2)
ところが、全人類の始祖は、禁断の木の実(神のみぞ知ること)を自分たちのものにしようと、神の命令に背いて罪を犯しました。罪によってかれらは、創造された状態において与えられていた義と、神との交わりを喪失し、霊肉すべての部分と機能において全面的に汚れ、罪の内に死ぬべき存在に堕落したのです。かれらから普通に生まれ出る人間は、始祖の罪を転嫁されて、罪の内に死ぬべき本性の腐敗を相続したのです。本性の腐敗から、すべての現実の違反が生じます。神のかたちでありながら、神の敵となってしまった。ここに、人間存在のパラドックス(逆説)があります。(ウ告白6:1-4)
この逆説は、神との関係における、人間の側の徹底的な不可能を意味します。神の敵となってしまった立場を、人間の側から変更することはできません。罪の内に死ぬべき本性の腐敗によって損なわれた神のかたちを、人間の側から修復することはできません。創造状態の義を失った人間が、それを再度獲得することはできません。神との交わりにおける幸せを捨てた人間が、神との和解交渉をすることはできません。徹底的な不可能を背負った私たち人間は、神の御前に立往生するしかないのです。
ウ告白7:1『神と被造物との間の隔たりは非常に大きいので、理性ある被造物は、かれらの創造主としての神に、当然従順であるべきではあるが、しかしそれでも神の側での何らかの自発的なへりくだりによるのでなければ、自分たちの幸いと報いとして、神を喜びとすることは決してできない。この[神の側の]へりくだりを、かれ[神]は、契約というかたちで表すことを良しとして来られた。』
このように告白される信仰は、理性ある被造物に対する<神の契約God's covenant>に関する聖書教理です。※根拠(詩編113:1-9,イザヤ40:1-31,使徒17:24-31)
神の契約に関する教理は、理性ある被造物[ここではもちろん人間]が、<自分たちの幸いと報いとして、神を喜びとすること>、これを契約締結の目的として提示しつつ、その可能性に関する消極的側面と積極的側面とを規定します。消極的側面は、人間の側から契約締結を神にもちかけることも、ましてその契約の目的達成のため神に協力することも不可能である、という真理です。これに対して積極的側面は、<神の側での何らかの自発的なへりくだりsome voluntary condescension on God's part>によってのみ、ようやく、人間に対する契約締結と目的達成の可能性が生じた、という真理です。
1645年10月10日、ウエストミンスター神学者会議は「契約」の教理に関する報告の第一命題を取り上げ、真っ先に、神の「へりくだりcondescension」を討論しました。この用語は、ウ告白の本文中、ここだけに使われます。神が人間に対して「お高くとまらない」「威張らない」。創造主が被造物のように「身を低くする」「卑しくなる」。この御意志を表現する手段として、神は「契約」をお用いになった。この聖書解釈は、他のプロテスタント諸信条には見られない、ウ信仰告白の優れて価値ある特徴です。
ウ告白7:2『人間と結ばれた最初の契約は、行いの契約で、その契約においては、完全で個人的な従順を条件に、アダムと、彼にあって彼の子孫とに、命が約束されていた。』
このように告白される信仰は、人間に対する神の契約、その歴史における第一の契約、すなわち<行いの契約a covenant of works>に関する聖書教理です。※根拠(創世記2:4-17,ローマ5:12-21,ガラテヤ3:10-14)
行いの契約に関する教理は、その本質と条件とを規定します。行いの契約の本質は、神がアダムとその子孫に<命を約束してくださること>です。この契約は条件付きで、人間の側の<完全で個人的な従順perfect and personal obedience>を要求します。
この教理は、ウ告白4:2「神は人間を、心の中に記された律法と、その律法を果たす力とを持つ・・者として創造された」という、人間の創造された状態に呼応する摂理として「行いの契約」を規定しています。人間が創造された状態に留まっていたならば、行いの契約において、十分かつ有効に、人は命の約束の恩恵に与かっていたはずです。
ウ告白7:3『人間は、自らの堕落により、自分自身を、その契約によっては命を受けられなくしてしまったため、主は、一般に恵みの契約と呼ばれる、第二の契約を結ぶことを良しとされた。この契約において神は、罪人に、イエス・キリストによる命と救いを無償で提供しておられ、かれらからは、救われるために、イエス・キリストに対する信仰をお求めになり、そして、永遠の命に定められている者たちすべてに、かれらが信じたいと願い、また信じることができるようにするため、かれの聖霊を与えることを約束しておられる。』
このように告白される信仰は、人間に対する神の契約、その歴史における第二の契約、すなわち<恵みの契約the covenant of grace>、その特質についての聖書教理です。※根拠(創世記3:14-15,イザヤ42:5-9,ローマ3:19-26,ヨハネ15:26-16:15)
恵みの契約に関する教理は、契約締結の事情と特質とを規定します。人間に対する神の第一の契約であった行いの契約に代わる、第二の契約として恵みの契約が締結された事情は、<人間の堕落と命の喪失>に対する<創造主なる神の御意志>でありました。恵みの契約の特質は、罪ある人間すべてに対して、神が<キリストによる命と救いを、無償で提供するGod freely offereth>ゆえに、人に<救われるため、キリストに対する信仰を求める>ことです。また、神の永遠の聖定によって命に定められた民すべてが、信じたいと願い、信じることができるよう<聖霊を与えると約束する>ことです。
神の側での自発的へりくだりによる、人間との「単数の契約」は、その本質において「行いの契約」と「恵みの契約」とに区別されました。これにより、契約のどんな本質が二つに区別されたのでしょうか。それは、神が人間に命を約束し、人が自らの幸いと報いとして神を喜びとすることを可能にする目的において「一つの神の契約」が、人間に対して「条件つき」か、「条件なし」か、という本質において、二分されたのです。行いの契約は、人間に「完全で個人的な従順」という条件を要求しました。恵みの契約は、神に「命と救いの無償提供」を要求し、人間には条件を要求しません。すなわち、信仰は救いの条件ではなく、救いの恵みに与かる者の感謝の応答なのです。
ウ告白7:4『この恵みの契約は、遺言者であるイエス・キリストの死と、それによって遺贈される永遠の嗣業、および、それに付属するすべてのもの、との関連で、聖書ではしばしば、遺言[契約]という名で述べられている。』
このように告白される信仰は、恵みの契約の別称である<遺言a testament>に関する聖書教理です。※根拠(Ⅰコリント11:23-26,ヘブライ9:15-18)
遺言という別称は、契約の条件と内容に由来します。恵みの契約の条件は、<遺言者the Testator>であるキリストの死でした。その契約の内容は、<遺贈される永遠の嗣業the everlasting inheritance bequeathed>とそれに付属するものすべてでした。
キリストを「遺言者」と呼んで、イエスさまが地上で啓示された御言葉を「遺言」と解する。主イエスの御名において信徒たちに約束された「命と救い」は、キリストの死においてのみ「遺贈される永遠の嗣業」であると強調する。この味わい深い聖書解釈も、ウ信仰告白の優れて価値ある特徴です。
ウ告白7:5『この契約は、律法の時代と福音の時代とでは、異なるしかたで執行された。すなわち、律法のもとでは、それは、約束・預言・いけにえ・割礼・過越の小羊・その他、ユダヤ人の民に与えられた予型と規定 ―これらはすべて、来たるべきキリストを前もって指し示し、約束されたメシアに対する信仰という点で選びの民を教え、造り上げるのに、御霊の働きをとおして、その時代にとっては十分かつ有効で、かれらは、このメシアにより、完全な罪の赦しと永遠の救いを得ていた― によって執行されており、旧約と呼ばれる。』
このように告白される信仰は、恵みの契約の、<律法the law>の時代における、<旧約the old Testament>に関する聖書教理です。※根拠(Ⅰコリント10:1-4,Ⅱコリント3:6-11,ローマ9:1-18)
旧約に関する教理は、契約執行の方法と効果とを規定します。旧約の執行方法とは、律法のもとでの、約束・預言・いけにえ・割礼・過越の小羊・そのほかの<予型と規定types and ordinances>でした。その執行の効果は、来たるべきキリストを<前もって指し示しfore-singifying>、約束されたメシアに対する信仰という点で、選びの民を<教え、造り上げるinstruct and build>のに、十分かつ有効でありました。
ウ告白7:6『実体であるキリストが差し出された、福音のもとでは、この契約が実施される規定は、御言葉の説教と、洗礼および主の晩餐の聖礼典の執行である。これら[の規定]は、以前より数が少なく、より簡素に、以前ほどの外的栄光なしに執行されるが、しかしそれでも、それらにおいて、この契約は、ユダヤ人にも異邦人にもすべての国民に対し、いっそうの完全性と明証性と霊的効果をもって提示されており、これが新約と呼ばれる。したがって、それぞれの時代に、実体において異なる二つの恵みの契約があるのではなく、まったく同じ一つの契約があるだけである。』
このように告白される信仰は、恵みの契約の、<福音the gospel>の時代における、<新約the new Testament>に関する聖書教理です。※根拠(コロサイ2:16-19,マタイ28:16-20,エフェソ2:14-22)
新約に関する教理も、契約執行の方法と効果とを規定します。新約の執行方法とは、福音のもとでの<御言葉の説教the preaching of the Word>と<聖礼典の執行the administration of the sacraments>です。旧約の執行方法と比べて「より簡素」ではあるものの、新約の執行の効果は、ユダヤ人にも異邦人にも、すべての国民に対して、<いっそうの完全性と明証性と霊的効果をもって>提示されます。ゆえに旧約と新約は<まったく同じ一つの契約one and the same covenant>であって、異なる二つの契約が存在するのではありません。
律法の時代に属する「旧約」と、福音の時代に属する「新約」とは、その執行の仕方において区別されるものの、その本質においては「恵みの契約」に統合されています。これにより、新約と旧約は、どんな恵みにおいて一つに統合されているのでしょうか。それは本章第一節において明らかです。「神の側のへりくだり」が、人間の側の不可能を可能にして下さった恵みです。「神の一つの契約」によって、人が自らの幸いと報いとして、神を喜びとすることを可能にしていただいた恵みです。
神の前に立往生する他なかった私たちは、神を喜びとする人生を、自らの幸いと報いとして恵まれました。神の側がへりくだり、赦しと和解をもって、交わりを再開して下さったからです。神の側から私たちに、命と救いを無償で提供して下さったからです。神の側から、私たちの味方となって下さったからです。私たち人間のパラドックスは、「神の側の遜りという逆説」すなわち「神の恵みの契約」によって克服されたのです。
祈―使徒17:24-31による
愛しまつる主イエスよ、神とともに御言葉によって万物を創造されたあなたは天地の主。慕いまつる神の御子よ、あなたは復活において御自身を永遠の神殿として完成された方。崇めまつるキリストよ、あなたは遜って人と成られ、我らに命と息をお恵みになります。仕えまつる平和の君よ、あなたは神の民を生み出し、神を求めさせ、神を見出させます。聖霊よ、あなたは人の世に遣わされ、無知の時代に住まい、主イエスを証しなさいます。御父よ、あなたは遜って契約を与え、御子においてお救い下さいます。感謝いたします。主の御名によって。アーメン